昭和40年02月25日 朝の御理解
真の信心が分かりたい、分かりたいと云う一念。本当の信心が分からせて頂きたい、身につけていきたいと云う、そう云う、やむにやまれん一念が、私の心の中にあるのはあるのだけれども、分からない事、疑問に感ずる事、それは実に雲のようにある。限りがない。確かに、教祖の神様がおっしゃった、『天地のことは、人間の眼をもって知って、知りがたきものぞと、恐るべし恐るべし』と、いうような、お言葉をもって教えておられるんですけれども。
本当に恐るべし恐るべしであり、お互い信心がです、本当その分からないところ、疑問に思うこと、その疑問に思うことが分からないことが、少しづつでも分からせて頂くところの楽しみ喜び、そこ迄皆さんの信心が意欲的であり、進んでいかなければならん。そして、私、その自分の信心を振り返らせて頂いて、分からせて頂くこと、又分からせて頂いたこと、それはめぐりのお取り払いを頂いて、お徳を受けてゆかなければ、私共の幸せは絶対にあり得ないと云うこと。
本気で実意丁寧に、神様の御教えのままに、御教えを忠実に行じさせてもらい、本気で自分の改まりと云うことに、本気で本心の玉を磨いてゆくと云うことに取り組んでいけば、確かにお蔭も受けられる。めぐりのお取り払いも頂いていけれる。そして、お徳も受けていけれると云うこと。そのことだけは段々確信が出来てきた。ここで、私が確信が出来たことを、自分がお蔭を受けたことを、皆さんにお伝えさせて頂くのである。私の分かったと云うのは、そこのところだけ。
今朝そんなことを思わせて頂いて、分からんことがあまりにもまだ多い、そのことを思わしてもらいよりましたら、『魚が溺れたと云う話しを聞いたことがない。鳥が、故障が起きて墜落をした』と云ったような事も、聞いた事もないそんな事を頂くんですね。もう、こう云うふうに頂いても、いよいよ私の分からない事が、いよいよ雲のようにわいてくるのです。そう云うようなお蔭、そう云うような徳を身に付けていきたい。教祖の神様が、家繁盛、子孫繁盛の道を教えて下さる。
例えば、私が分からせて頂いた事、只今申しますように、本気で改まらせてもらい、磨かせてもらい、そこに焦点を於て精進してゆくと、成り行きを大事にしながら、自然との対決に信心をもって、そのことに取り組んでいくと。そこには、確かに一分一厘間違いのない、神様の働きを、心に感ずるだけではなくて、形の上にも頂いていけれる、確信が出来たのだけれども。
この信心をいかにして継承するか、この信心をいかに子供に孫に伝えてゆくかと。私共の先輩、みんなお徳を受けられて、飛ぶ鳥を落とすような比礼を頂かれて、沢山な人が助かった。確かに、助かったのは助かったんだけれども、それが助かりぎりになって、後お蔭を落としておると云う事。いや、そう云う教会ですらが、段々生き生きとした比礼と云うものを落としていっておると云う事。
教祖の神様が嘘をおっしゃるはずはない。ここは【 】こう言う様な事を考えてみると、いわゆる成程世間一般に云うところの栄枯盛衰は世のならいだと。やっぱり、そう云うものだろうかと、してみるとたいした事はないと云う事になる。栄枯盛衰それは、信心の無い人の云う事であって、信心の有る者真の信心をさせて頂く者、そして真の神徳を身に付けてゆく者のところが、そんな事があってよいはずはない。
楽は苦の種、苦は楽の種、ね、楽のお蔭を頂いたら、もう次には苦の種が出来ておる。苦の種が出来たら、又楽の種がと云うようなことではいけない。お道の信心は、どこまでも楽の種をまいて、楽のお蔭を受けてゆくと云う繰り返しのお蔭を頂かなければならないはずだと思う。何処にかです、何処にか、これはおかしいものがあるなあと。そしたら次に頂きますことがね、あの御神前に、今大きな猫柳がいれてありますね、『あの猫柳』を頂くんですね。
私、猫柳と云うことから感じたんですけれども、四神様の御教えの中に、この方は、不浄を一番お嫌いなさると。この神様は、教祖の神様は不浄を嫌わん、自分の心に、はろうてゆけと云ったような事をおっしゃっておる。一般に、不浄と云うのではない。四神様のおっしゃる不浄と云うのは、成就せんと云う事だとおっしゃる。ただこれも私は分からない。私どものおかげが、私どものおかげ、願っていることが成就していく、一つ一つ叶うていくということ。それは成就である。
したら私共が願っておる事がです、成就しないという事。神様はそれを一番お嫌いなさるという。それやらこれやら思うてみると分からない事ばっかり。本当に私は思う。魚のおぼれた話しは聞いた事がない、鳥が墜落した事は聞いた事がない、魚が自由自在に水の中を泳ぎ回っているように、ね、ほんとに鳥が楽しげに大空いっぱいに飛び回っておるようにそれは、ああ言う様なおかげを受けるという事が、そういうおかげの頂けるおかげの元を造るという事がおかげではないだろうかと。
死したる後、神にまつられると云う事を楽しみに信心せよと。狐狸でさえ神に祭られるということを喜ぶというではないか、まして万物の霊長であるところの人間がです、死したる後神に祭られるということを楽しみに信心せよと仰るその神とはどういう神だろうかと、ただ子孫遺族のものがです、ただ御霊の神に祭ってくれたと、それが神に祭られるということだろうかと。そうでもなさそうである。
私は、今日の皆さんに聞いて頂きました事はいつも申しております。ここ迄は、私確信しておる。だから、皆さんもここ迄はおかげが受けられると云う確信をもって頂きたいと云う事です。私がそこ迄は確信をもってお伝えするから、皆さんもそれを信じて頂きいたと云う事です。ね、おかげの花では散る。只、おかげを頂いてゆく、日々おかげを頂いてゆくと云う、そのおかげの花は必ず散る。
しかもそれは稔りがない。これはどうでも徳を受けねばいけない。そこで私はまあ、これは、ここはまだ確信じゃないですけれども、まあ今日思うんですけれども、愈々やはり本心の玉を磨くこととか、改まるとかと云う事に焦点をおくと云う事はもちろんの事ですけれども、成り行きを大事にさせてもろうて、おかげを頂いてゆく以外にはない。そして私はここんところに、かすかにまあ信じる者をと云うものはです。
この調子でいけば信心の継承と云うか、徳も一緒に受け渡して私は、徳と云う、らしい徳をもし頂いたら、それを私の信心と同時に、お徳を子供に孫に、そして又、ここで、私の信心を頂いて下さろうとする、【 】方達に渡しておけるなぁと云う事はです。不自然なお蔭と云うか、不自然な教導。もう、どこ迄も自然な中にです、教導して、まあ例えて言うならば、私、長男のことに干渉しない。
もう本当に成り行きにまかせてある。所謂、神様にお育てを願うと云うことに焦点をおいていきよる。ところが、私が思う以上に育っていきよると云う事。は、はあ、こう云うような信心の継承になからにゃならん。もし私が、お徳と云うものを頂いたらです、はあこの調子で行きよるなら、お徳を子供に残してやることが出来るのじゃないかと云う事をです、今まあ、いろんな中に、夜ごと、まあ夜、夜ごとにです、育っていきよるところを見てから、そう思うです。そのことも育って見なければ分からない。
例えば私この自然にです、この子供は修行させんならんから、どこどこに修行にやろうかと、こう云う事も教えておこうとか、ああもさせようこうもさせようああもしょう、こうもしようと云うて私が教導したんではです、これは不自然なものしか伝わっていかんのではないかと言う様な気がする。そこから私はとにかく成り行きと云うものを尊ばなければいけんな、自然と云うものを尊ばなければいけんなと云う事を感ずる。
昨夜、大和さんところの宅祭りと、霊様の改式祭がございました。先祖の霊様を、お道流にお祭りさせて頂いて、確かに霊様のお喜びを頂けた。神様の喜びも、本当に、この心に感ずる程、又は形にもそれを見せて頂くお蔭を頂いた。もうとにかく霊様のお喜びがですね、もう私お風呂に入らせて頂きましたら、お風呂の中でこうしておりましたら、お風呂一杯の、あそこのお父さんのニコニコした顔を頂くですね。
もう本当に、霊様の喜びを頂きよると云う事を、実感させて頂いたんですけれども、本当に神様はもう、今度は見事に八足が出来お社も一番大きい、もう本当に見事にそのおかげ頂いて、実に神乍らのお繰り合わせ頂いてから、丁度23日に寸莎(すさ)が出来上がったり御本部の方から御霊地の方から注文してあったお社やらが、大体出来ない筈のが出来て、丁度昨日のお祭りに間に合うと言う様なおかげを頂いた。
云うなら、神様のお社の新築落成と云ったような感じの、その事をお礼申し上げておったら、お社の中からバーンと云うオイサミを頂くんですね。神様のお喜びを頂いておるんだなと云う事を実感するんですよ。で、私、あの神饌物のお蔭を頂かせて頂いておる時に、お野菜を、こう盛りよったら、えらいごぼうが小さい【 】ごぼうの産地ですから、見事なやつがあるんですよ。
「こりゃ、他の野菜は見事だけれども、こりゃごぼうだけはどうしてもこまかいね」と云うたら「それがあなた家内が病気してから、具合の悪か時で御座いましたもんじゃから、ほんな生まれたばっかりですね。手入れをしなかったちもう草はぼうぼうとはえ、肥料はほどこす事はでけん」と云うような事で、もう所謂自然に任せてあった訳です。だから神様任せと云う事は、そう云うような事ではないと云う事が分かるですね。
例えば、ほんなら、私が長男の事を申しましたがですね、そう云うようなものではない私のは。と云うて、長男のそこにですね、雑草を取るとか、肥料をほどこすと云う事はどう云う事かと云うと、結局、私の心の中にですね、ある雑草を取り除いてゆくと云う事ですね。私の心の中に、肥料をほどこしてゆくと云う事ですね。子供の事を思えば思う程、私は、信者の成長を願えば願う程です、信者の雑草をとってやると云うのではなくてです、私の心の中の雑草を取り除く事だと。
それが天地にかようのだと、そして、そこが見事に成長してゆくのだと云う事も、私は確信がもてれるです。ですから、【 】いかに、成り行きを大事にしなければならんか、不自然の教導であってはならないかと云う事です。結局そこにせんじつめますと私が、いよいよ本心の玉を磨かいてゆく事であり、実意丁寧をもってです、改まってゆくこと以外にはないと云う事です。
私、昨日あちらで御理解を頂かせて頂こうと思うたら、あまりにも、なんかバランスのとれないですね、その感じだったんです。神様にその事をお願いさせて頂いたら、それは、私と大和さんだけが喜び合うてゆけばいいんだな、私が喜ぶ事は大和さんも感じるだろう。大和さんの喜びは私にも感じてくれる。そんな感じでしたね。昨日のお祭りは。そして私が頂きす事はですね、例えば、大和さんの信心を引きずり落とすと云ったような力もないです。家内やら、例えば親父の場合。
例えば、大和さんは、こんな『昔、赤ちゃんをおんぶする時に、タオルで後ろの髪を、こう、かかげられんようにタオルで頭をくくっておるでしょう。あの子守さん達が、あ~云う状態のところ』を頂くんです。ところが、こっちの子供はかつぐもなんもまだ子供が下の方におってから、背が届きませんし、小さい赤ちゃんをおんぶしておる所を頂きました。ははあここの場は育てられんのだなあと、こりゃ、やはり夫婦が勢を揃えた信心にならんにゃいかんな。
親の背に、本当に教導する信心にならなきゃいけないと、私は感じたんですけれども、これからの信心の願いと云うのがですね、例えば、私は長男のお育てを神様にお任せしてあるような意味合いにおいて、任せてです、お育てを頂かにゃいかんと云う事を感じたですね。あちらに頂きました、子供の事ですけれども、おかげの花はもう散ったと、もう徳の花が、今つぼんどると、こうおっしゃる。
だから、この徳の花は必ず開花する。そして、稔った時が本当なことだと。もう私、それを頂きながら、まぁだこれは、いっ時の事じゃなかなぁと思いましたね。徳の実が稔ると云う事は。と云うて、それはですね、はあ、ほんならこれは、いっ時じゃないと云うことじゃなくてですね、そこ迄いく過程が楽しいのです。実は、この過程が有難いのです。それを現在、私が頂いておる信心なんです。
まだ限りがないのですから、けれども、これからはです、おかげや御利益と云ったようなものが目当てではなくてから、お徳を頂くと云うことが、信心にふんぎりをつけて、真の信心をいよいよ究めていこうと云うようなところに、ここまでは、私は信心も一つの段階だと、こう思うですね。私自身、もうほんとに分からない事があまりにもいっぱいあって、疑問に感じるような事があって。
そこでうろうろしておるような、状態の時が、いつもあるので御座いますけれども、その、うろうろの中にもです、分からん中にもです、少しづつ確信をもって、これだけはと云う事。だから、これだけは間違いないと云う事を、皆さんにお伝えしておる訳ですからです、皆さんもです、私が、確信をもってお伝えをする事だけは、皆さんのものにしていって頂きたい。
これはもう迷わず疑わず信じて、そこんところを行じて頂きたい。頂いてもらいたいと云う気持ちが致します。ね、ここを、おろそかにしたのではです、私は、いよいよ信心の継承、皆さんが、いかにお蔭を頂かれても、それを子に孫に伝えると云う事は、不可能である。結局、信心しておっても栄枯盛衰は世のならえと云ったような結果にしかならない。教祖の神様が、嘘をおっしゃっておるとは思われん親の代より子の代、孫の代と繁盛してゆくような、その基礎、基と云うものをです。
只今、私が辿らしておるようなことの中から、そう云う信心からです、ここはまだ確信がもてませんけれども、そこのところを確信づけていかなければならんと云うふうに思います。どうでも一つですね、私の願い新たに、今日、願いをさせて頂くところ、私の本当の理想教と、それは飛ぶ鳥が、故障が起きて墜落したことがないと云う。魚が溺れた事を聞いた事がないと云う。
そう云う溺れる事のない、落ちる事のないそう云う信心をです、私のものにしてゆきたい。教祖の神様は、そう云うものを、教祖の神様自身、身につけておられた。それが、あの金光教の御繁盛であり、金光教のいよいよ繁盛になっておる土台だと私思うのですね。ここんところに、私、焦点をおいて、いよいよ分からせて頂きたいと願うております。
おかげ頂きました。